以前にも過剰な愛国心や差別に対する権利意識への疑念を書いたが…。
http://kuronekomaster.blog54.fc2.com/blog-entry-100.html
予想通りヘイトスピーチ(憎悪表現)解消法は双方から過激な者を炙り出す役目を発揮しているようだ…。
【川崎デモ中止事件】産経報道:ヘイトスピーチ…川崎・渋谷で大混乱
「ヘイトデモやめろ!」飛び交う怒号 専門家「現実主義者がかじを取ってくれれば」[H28/6/6]
http://www.himajinnnotameno.com/archives/7056058.html
あくまでも言葉なのだ…相手が気にしないのであれば、本来取り締まると言うまでの代物ではない。
だが言葉に対する思いは正に人それぞれなのだから、温度差が出てしまうのは解る。
大なり小なり侮辱に憤りを覚えない人間は超人だろうし、態度によっては相手を見下して居る様に感じられてしまうかも知れない。
だが、言葉より『殴られた方がマシ』だと言ったり、『殴ってしまう』人は、自分が強い立場の存在でしか無い事を思い出して欲しい。
保守にしても革新にしても、弱い立場の為に立ち上がると言うのなら、何があっても言葉に暴力で返しては成らない。
そうだ『殴れるのは』、『殴られて平気なのは』、当人が強い存在だからなのだ。
その憎悪の悪循環は最終的に弱い者へと向かう。
法治国家であるのなら実力を行使していいのはどうあっても警察などの権力者だけで、それ以外の者が振るえば罪に問われるべきである。
そして、今回の問題は暴力ではなく、暴言まで取り締まりの対象としてしまった事にあるのだ。
言い合いになってしまえば警察もどちらの見方をすべきか判断のしようがないのだ。
とても不安定な状態だが、私は右翼でもなく左翼でもない。
かと言って中道を謳うほど、事なかれ主義とも限らない。
自ら政治家を目指す身だ、独自の思想を持っている。
それを『双翼思想』と呼ぶ事にした両極端でも真ん中でもない。
端から端まで意見を聞いて、場合によっては新しく考えて、一番良い解決策を出す事。
先見性に頼らない事を主眼に置いた弁証法の極致を目指している。
ネットによる情報過多の社会で人は簡単に自信を賢者だと錯覚してしまう。
それだけなら良い、確かに現代人は古代の人間よりも多くの知識を身に付けている。
だが、それを扱う人間性の部分はどうだろうか?
意見や価値観、立場や損得が違う相手を簡単に『愚かで悪い』と決めつけてしまっていないだろうか?
勿論、私もそうなのかも知れない、ただそれを言い出せばキリがないのだ。
揺るぎ無い事が正しいと思い込んだ原理主義は、向かって来なければ自分が正しいと思い続けるし、抗って退かない相手は例え理屈を伝えても、相手は『間違っているから、間違っている』と判断する。
人は簡単に『自分で見出した真実』に従い、一歩も譲ろうとせず、かと言って『それ以外の真実』など絶対に無いと否定し続ける。
全てが玉虫色でちゃんぽんで良いとは言わないが、利害が異なる場合などは互いの極論が正解の方が少ないだろう。
少しずつ譲り合うにしろ、どちらかで押し切るにせよ、まずはいがみ合う前に互いの話を聞き、知識を知恵を絞り合うべきなのだ。